今まで何回となく近くを通りながら、まだ一度も訪ねていない彦根城。井伊家十四代の十四男に生まれるも藩主となり、幕府の大老に上りつめ、桜田門外で“花と散った”(城内の説明書による)、井伊直弼の居城です。一度は行ってみたいと思いつつ何かしら都合がつかず、今度こそはと近江八幡への旅の二日目に予定していたところ、その前夜の気象情報で、翌朝の湖北地方に大雪警報が・・・。でも何とか辿りつこうと、雪が溶ける真昼に合わせ、琵琶湖線彦根駅に降り立ってみると、西の小高い彦根山に白亜の天守閣が冬陽に輝いていて(!)、ヤッホーでした。
城の広い敷地に井伊家の史跡が点在するも、まずは国宝の天守閣へ。彦根城は姫路、松本、犬山、松江城と共に、国宝天守を持つ五名城の一つ。最上階からの眺めは、琵琶湖を一望する絶景という。でも歩き出してみると、その本丸までの石段がやけに長い。ゆるく曲がりくねりながら、どこまで続くか。その数、百四十段。運動不足で重い足を引きずり何とか登り切ると、由緒ありげな太鼓門櫓。昔はここに太鼓が置かれ、時を告げたとか。その門の上に、形のいい天守が誘うように顔を覗かせている。ヤレヤレと心躍らせ、いざ天守の中へ。


薄暗い廊下の先には、急勾配の階段が待ち受けていて、嫌な予感が。その傾斜は六十二度。階段というより、堅固なハシゴというべきか。老人や子供の多くは、手すりより踏み段を掴んで四つん這いで上がると。スカートの人はとても無理。一セット上り終えてホッとする間もなく、また次が目前に。三層にしてはやたら階段が多い。おまけに横幅一メートル弱の階段は、上りと下りに仕切られていて狭いのだ。脇目もふらずに進まないと、落下の危険が。横の手すりに死に物狂いで掴まりながら、私は一瞬考えた。この恐怖の階段は一体何のためかと。むろん下から攻め上る敵の侵入を防ぎ、上からの攻撃をし易くするのが狙いでしょう。でも敵が太鼓櫓を破って、天守まで押しかけて来た時は、もはや落城寸前。これは、味方をも疲弊させる無駄な抵抗ではなかろうかと。
でもしかし、それは戦さを知らぬ現代人のタワゴトにすぎません。
思いみればこの城の築城が始まったのは、関ヶ原合戦の直後__。大きな戦功をあげた井伊直政が、恩賞として授かった近江国東部に、二十年かけて完成させたもの。天下はまだ落ち着かず、戦火がいつ上がるか知れぬ時代、天守閣は城の権威の象徴として築かれた。一朝ことあれば、藩士たちは天守を守り抜いて死ぬ。それを本懐としていたでしょう。そしてこの彦根城天守は、落城した大津城から移築したと言われ、他のパートにも敵城の構造物が多く使われているらしい。だが幸運にもこの城は、一度も戦さをくぐらずに現代に残った。とはいえ、戦火に潰えた城の天守を頭上に戴き、戦場の殺気立った雄叫びや、荒々しい戦渦の音、血の匂いなどを内に封じ込め、今に伝えて来たのです。この天守の持つ凄みエグみは、そんなところにあるように思えますが・・・。
江戸城の天守はとうになく、大阪城は徹底的に壊され徳川の城として再建され、今はエレベーター付きコンクリート城に復元されて、歴史博物館として活躍しています。それらに比べると、彦根城はまたずいぶん違う道を歩んだもの。今の姿はどうであれ、どこかにその時代を深く刻んで、刺さってくるものがある史跡は、やはりほろ苦くて面白い。
帰ってからひどい筋肉痛の足をさすりつつ、うん、あそこは面白かったと思う私。おかげで天守からの絶景は、何も記憶に残っていません。

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淺野 聡 (月曜日, 15 12月 2025 17:33)
20年程前、岐阜駅から見える金華山の頂上に建つ雄姿に惹かれ、岐阜城に登りました。
ロープウェイで頂上まで行くも、実はそこからが始まりで、階段を登るほど段差があり得ないほど高くなり、後戻りできない恐怖を体験をしましたが、苦闘を乗り越えて眺める眼下の景色、広がる濃尾平野と長良川の流れは素晴らしかったです。
ただ、何より、こんなところに城を建てた当時の重労働を思いやってしまいました。