もう、ン十年も築地の美人おかみだった私の旧友は、移転に反対してすったもんだのすえ、豊洲に移って行きました。
さて、もう二十年も前のこと、この彼女の夫君を、築地の癌センターに見舞ったことがあります。たまたま同じ病院に私の身内が入院していたことが分かり、ご挨拶かたがた伺ったのです。
病床で初めて会った夫君は、洒脱なお人でした。大腿骨の一部を金属に変えるという大手術の後でしたが、明るい窓際のベッドで、術後は良好だと淡々と語ってくれました(友人はこの時、不在)。
オッ、と目を奪われたのは、窓辺に上下二段でズラリと並べられた落語全集のC Dでした。さすが築地の旦那----と落語好きの私は急に親しみを覚え、誰がごひいきですか、と思わず問うたのです。
「いやあ、眠れない夜はねえ、枝雀とか、小三治ですか」
と照れながら私の大好きな名を挙げました。眠れない夜は屋上に出て、夜景を眺めつつ聴くこともあると。そして最後にポツリと、
「でもやっぱり志ん生ですね」
あ、やっぱり志ん生ですか。私は思わず笑い出して、ひとしきり志ん生の話が弾んだのでしたが----。